高松高等裁判所 平成8年(う)157号 判決
論旨は,要するに,原審においては,①法廷通訳人の通訳能力が著しく低く,被告人は事実上その理解する言語での通訳の援助を受けることができていないから,これは市民的及び政治的権利に関する国際規約14条3項(a),(f)に違反するとともに,刑事訴訟法175条にも違反する,②検察官が証拠調べを請求した証拠書類につき,その朗読に代わる要旨の告知が通訳されておらず,被告人は,どのような内容のどのような証拠書類が取り調べられたか分からず,防禦権の行使を妨げられたとし,これらの点において,原審の訴訟手続には,判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反があるというのである。
そこで検討するに,まず,①の点については,被告人は,当審公判において,原審の通訳人のタイ語は十分に理解できず,原審における被告人質問の際も,ほとんど日本語のみでやりとりがなされ,タイ語の通訳はなされず,自己の言いたいことが十分に伝わっていない旨供述している。しかし,関係の各証拠によれば,被告人は3回にわたり日本に不法残留し,あるいは偽造パスポートにより入国し,これが発覚して強制送還されるまで日本で生活した経験を有し,さらに平成元年6月にも偽造パスポートにより日本に入国して売春婦などとして働くうちに同年12月本件犯行に及び,その後平成8年1月に逮捕されるまで日本各地を転々としながら生活していたものであって,その経験から日常の生活に必要な日本語の知識は相当程度修得しているものと考えられるところ,被告人がほとんど日本語のみでやりとりがなされたという原審の被告人質問調書をみても,被告人は,自分が金槌で被害者の頭部を殴打したことは間違いないが,殺すつもりはなかった,その時には被害者は既に死んでいると思った旨,タイ国人の通訳人による通訳がなされた当審における弁解と同様の弁解をしている上,被害者の住むマンションに同居してその世話で売春をするようになったことやその後被害者が家賃等として多額の金銭を徴収することに不満を持ち,他の同居者2名と右マンションから逃げ出そうという話が出るようになった経過,さらには本件当日被害者を死亡させるに至った状況等についても,その供述は,当審供述と細部までほとんど一致しており,これに加えて,被告人の当審供述によれば,本件の起訴状は通訳され,冒頭陳述や論告は通訳人から翻訳文を渡され,また裁判官の補充質問においては,予め通訳人に質問事項をタイ語に翻訳させたものを用意し,被告人にはタイ語で右質問に対する答えを筆記させて通訳人にこれを通訳させるという配慮もなされているのであって,被告人が母国語ではない日本語で質問され供述することに対する不安を覚えたことは想像に難くはないものの,被告人は法廷通訳人の一定の援助も得て,原審の審理で何が争点とされているかを理解し,かつ,自らの弁解を十分に述べているものと判断される。したがって,被告人が原審において適切な通訳人の援助を受けられなかったという所論は採用できない。
次に,②の証拠書類の朗読に代わる要旨の告知が通訳されなかったとの所論については,被告人の当審供述によっても,右要旨の告知について通訳あるいはこれに代わるべき翻訳文の交付などの措置がとられたか否かは必ずしも明らかではない。ところで,刑事訴訟法175条は,国語に通じない者に陳述をさせる場合には,通訳人に通訳をさせなければならないと定めるのみであるが,法は,起訴状の朗読や判決の宣告(最高裁昭和30年2月15日判決・刑集9巻2号282頁参照)など,被告人の権利保護のため重要と考えられる事項についても通訳することを求めているものと解されるのであり,証拠書類の朗読に代わる要旨の告知についても,これが裁判所において取り調べられた証拠書類の内容を被告人に理解させ,必要に応じて弁解の機会も与えるという重要な意義を有するものであることからすると,原則としてその通訳を要するものというべきである。しかしながら,本件の原審審理においては,被告人は,被害者を金槌で殴打したこと及び被害者の死亡の事実自体は争わず,殺意のみを争っていたものであり,右審理の状況に照らすと,殺意を認めた被告人の捜査段階における供述調書は,最低限被告人にその内容を了知させるべき重要な証拠書類ということができるが,それ以外の証拠書類については,必ずしも法廷において被告人にその内容を了知させ,弁解の機会を与える必要性はそれほど高くないと考えられる。そうして,右被告人の供述調書については,弁護人及び検察官からその内容について相当詳しく質問され,被告人もこれに対する弁解を述べており,その要旨の告知が通訳されたのと実質的には同等の措置がとられていると言いうることからすると,原審において,証拠書類の朗読に代わる要旨の告知が通訳されなかったとしても,このことをもって違法な措置とはいえない。所論は採用できない。
2 理由不備の主張について
論旨は,要するに,原審裁判長は,原判決の公判廷における宣告に際し,その一部のみを通訳させただけで,被告人の殺意を認定した事実認定の補足説明の項を通訳させておらず,これは刑事訴訟法44条,335条,342条,175条,刑事訴訟規則35条に違反し,刑事訴訟法378条4号にいう判決の理由不備があるというのである。
しかし,判決の宣告は,国語に通じない者に対してこれをする場合であっても,日本語によって行なわれるものであり(裁判所法74条),これが適式に行われている限り,仮にその通訳に不備があったとしても,そのことをもって判決の理由に不備があるということはできない。もっとも,国語に通じない者に対して判決の宣告をする場合にはこれを通訳させなければならない(前記最高裁判決)から,その通訳に重大な誤りや欠落がある場合には,訴訟手続の法令違反となり得る余地があることは当然であり,所論はこの趣旨をいうものと解されるので,検討するに,所論が通訳されなかったという原判決の事実認定の補足説明の項は,殺意を争っている被告人に対し,殺意を肯定した理由を説明するものであるから,これが被告人にも通訳され,理解されることが望ましいことはいうまでもないが,他方,この部分は,刑事訴訟法335条によって有罪の判決に示すことが義務づけられているものではなく,また,その内容からみて,これを,一般に法律的知識等に乏しい被告人にも理解できるような言葉で,かつ正確に通訳することは,熟達した通訳人であっても,かなりの困難を伴うものであることは否定できないことなどにかんがみると,右部分が通訳されなかったとしても,これをもって違法とはいえない。